マインドフルネスと仮観

以前本サイトでマインドフルネスは仮観だと言いましたが、仮観ってなんですか、という質問があったのでもう少し詳しく御説明しましょう。

仮観とは、「存在が仮に有ると考える」ことです。

存在があるのは当たり前やん!と思う方が多いと思います。

そうです。

我々普通の人は、物は存在していて、多い・少ない、長い・短いなど比較も可能だと思っています。それが普通の感覚です。

その普通の感覚が「仮観」です。

我々にとってきわめて常識的な感覚です。

だから「常識」=「仮観」でも良いと思います。

常識は確かに大事ですね。

マインドフルネスは常に「健康に良い」とか、「ビジネスのパフォーマンスを上げる」とか、「生活の質を上げる」とか、常識の上に成り立っています。

つまり、仮観の上に成り立っています。

これでは実は片手落ちなのです。

常識の範囲内だけの発想では乗り切れない場面もあると思います。

仮観で物事を考えると、多ければ多い方がいい、大きければ大きい方がいい、ということになります。

これは行き過ぎた競争社会を招く危険性があります。

お金をたくさん持っている方が良い、

高い地位の方が良い、

より美味しい物の方が良い、

と際限がありません。

仮観は一面真理でありますが、同時に間違ってもいるのです。

お金も大事ですが、金額によって幸福になるわけではありません。

高い地位も良いでしょうが、窮屈で孤独かもしれません。

美味しい食事は健康を害するかもしれません。

この、すべての価値観をひっくり返すと「空観」になります。

すべては比較なんて出来ないという立場です。

仏教は基本的に空観の方に立ちます。

だけど、また空観を突き進むと霞を食って生きるようなことになるので現実から遠く離れていってしまいます。

理想主義に陥ってしまうのです。

理屈の上では「諸行無常」ですが、「諸行無常」だからと言ってもお金を払わないでラーメンを食べる訳にはいきません。

「諸法無我」だからといって住民票に名前を記載しないわけにはいきません。

健全な社会生活を送るには「仮観」で生きてゆかねば立ち行かないですね。

その意味ではマインドフルネスは大変有効です。

本当は「仮観」も「空観」もバランスよく持つことが最も大事なのです。

両方のいいどこ取り、それが「中観」です。

何事も過ぎたるは及ばざるが如し、ですね。

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